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2016年7月 5日 (火)

『職業としての小説家』 村上春樹

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amazon紹介文より

いま、世界が渇望する稀有な作家──
村上春樹が考える、すべてのテーマが、ここにある。
自伝的なエピソードも豊かに、待望の長編エッセイが、遂に発刊!

やはり、ランニングに関する文章は共感する部分が多い。

よく毎日ちゃんと走れますね、よはど意志が強いんですね、と感心されることもありますが、僕に言わせれば、毎日通勤電車で会社に通っておられる普通のサラリーマンの方が、体力的にはよほど大変です。ラッシュアワーの電車に一時間乗ることに比べたら、好きなときに一時間外を走るくらい何でもないことです。とくに意志が強いわけでもありません。僕は走ることが好きだし、ただ自分の性格に合ったことを習慣的に続けているだけです。いくら意志が強くても、性格に合わないことを三十年も続けられるわけがありません。

そしてそのような生活を積み重ねていくことによって、僕の作家としての能力は少しずつ高まってきたし、創造力はより強固な、安定したものになってきたんじゃないかと、常日頃感じていました。客観的な数値を示して「ほら、こんなに」と説明することはできませんが、自然な手応えとして、実感として、そういうものが僕の中にあったわけです。

しかし僕がそんなことを言っても、まわりの多くの人はまったくとりあってくれませんでした。むしろ嘲笑されることの方が多かったみたいです。とくに十年くらい前までは、人々はそういうことにははとんど無理解でした。「毎朝走っていたりしたら、健康的になりすぎて、ろくな文学作品は書けないよ」みたいなこともあちこちで言われました。ただでさえ文芸世界には、肉体的鍛錬を頭から小馬鹿にする風潮がありました。「健康維持」というと、多くの人は筋肉むきむきのマッチョを想像するみたいですが、健康維持のため年生活の中で日常的におこなう有酸素運動と、器具を使っておこなうボディー・ビルディングみたいなものとでは話がずいぶん違います。

日々走ることが僕にとってどのような意味を持つのか、僕自身には長い間そのことがもうひとつよくわかりませんんでした。毎日走っていればもちろん身体は健康になります。脂肪を落とし、バランスのとれた筋肉をつけることもできますし、体重のコントロールもできます。しかしそれだけのことじゃないんだ、と僕は常日頃感じていました。その奥にはもっと大事な何かがあるはずだと。でもその「何か」がどういうものなのか、自分でもはっきりとはわからないし、自分でもよくわからないものを他人に説明することもできません。

でもとりあえず意味が今ひとつ把握できないまま、この走るという習慣を、僕はしつこくがんばって維持してきました。三十年というのはずいぶん長い歳月です。そのあいだずっとひとつの習慣を変わらず維持していくには、やはりかなりの努力を必要とします。どうしてそんなことができたのか?走るという行為が、いくつかの「僕がこの人生においてやらなくてはならないものごと」の内容を、具体的に簡潔に表象しているような気がしたからです。そういう大まかな、しかし強い実感(体感)がありました。だから「今日はけっこう身体がきついな。あまり走りたくないな」と思うときでも、「これは僕の人生にとってとにかくやらなくちゃならないことなんだだ」と自分に言い聞かせて、はとんど理屈抜きで走りました。その文句は今でも、僕にとってのひとつのマントラみたいになっています。「これは僕の人生にとってとにかくやらなくちゃならないことなんだ」というのが。

何も「走ること自体が善である」と考えているわけではありません。走ることはただの走ることです。善も不善もありません。もしあなたが「走るなんていやだ」と思うのなら、無理して走る必要はありません。走るも走らないも、そんなのは個人の自由です。僕は「さあ、みんなで走りましょう」みたいな提唱をしているわけではありません。街を歩いていて、高校生が冬の朝に全員で外を走らされているのを見ると、「気の毒に。中にはきっと走りたくない人もいるだろうに」とつい同情してしまうくらいです。本当に。

ただ僕個人に関して言えば、走るという行為は、それなりに大きな意味を持っていたということです。というか、それが僕にとって、あるいは僕がやろうとしていることにとって、何らかのかたちで必要とされる行為なんだというナチュラルな認識が、ずっと変わることなく僕の内にありました。そういう思いが、いつも僕の背中を後ろから押してくれていたわけです。酷寒の朝に、酷暑の昼に、身体がだるくて気持ちが乗らないようなときに、「さあ、がんばって今日も走ろうぜ」と温かく励ましてくれました。

でもそういうニューロンの形成についての科学記事を読むと、僕がこれまでやってきたこと、実感(体感)してきたことほ本質的に間違ってほいなかったんだなと、あらためて思います。というか、身体が素直に感じることに注意深く耳を澄ませるのは、ものを創造する人間にとっては基本的に重要な作業であったのだなと痛感します。精神にせよ頭脳にせよ、それらは結局のところ、等しく僕らの肉体の一部なのです。そして精神と頭脳と身体の境界は、僕に言わせてもらえば--生理学者がどのように述べているかはよく知りませんが線で区切られているものではないのです。

仕事などで正論をまくしたてる輩がいる。確かに筋が通っているし反論の余地もないのだが、妙に納得できないことがある。そのことを村上さんは以下のように言っているような気がする。

どれだけそこに正しいスローガンがあり、美しいメッセージがあっても、その正しさや美しさを支えきるだけの魂の力が、モラルの力がなければ、すべては空虚な言葉の羅列に過ぎない。僕がそのときに身をもって学んだのは、そして今でも確信し続けているのは、そういうことです。言葉には確かな力がある。しかしその力ほ正しいものでなくてはならない。少なくとも公正なものでなくてはならない。言葉が一人歩きをしてしまってはならない。

そしてボクも村上さんと同じような学生生活を送ってきた1人です。

当時、新宿の歌舞伎町で長いあいだ終夜営業のアルバイトをしていて、そこでいろんな人と巡り合いました。今ほどうか知りませんが、当時の深夜の歌舞伎町近辺には興味深い、正体のわからない人々がずいぶんうろうろしていたものです。面白いこともあり、楽しいこともあり、けっこう危ないこと、きついこともありました。いずれにせよ僕は、大学の教室よりも、あるいは同質の人々が集まるサークルのような場所よりも、むしろそのような生き生きとした雑多な、あるときにはいかがわしい、荒っぽい場所で、人生に関わる様々な現象を学び、それなりに知恵を身につけていったような気がします。英語にstreetwiseという言葉があります。「都会を生き抜くための実際的な知恵を持った」というような意味ですが、僕には結局のところ、学術的なものよりも、そういう地べたっぽいものの方が性に合っていたようです。正直言って、大学の勉強にはほとんど興味が持てませんでした。

本日の早朝ジョグ10km。

しかし、暑い!この暑さの中頑張って走りこめたのは福岡が12月にあったから故。この暑い時期に如何に走りのモチベーションを保つかが課題。

現在次男と一緒に寝ている部屋のエアコンのスイッチが紛失・・・・。暑くて夜中に何回も目が覚めた。熱帯夜やった。

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